地方都市を盛り上げる取り組み(七日町通り) 〜会津若松取材報告その2〜
皆さん、こんにちは。
会津若松取材報告の2回目は、七日町通りの取り組みを取り上げます。
最近、地域格差の問題が話題になってますよね。我々の映画の中でもその辺をきちんと取り上げたいと思っており、そういう意味でも非常に参考になりました。
◇地方都市を盛り上げる取り組み(七日町通り 渋川問屋の渋川恵男さん)
渋川問屋とは、明治時代、会津一の海産物問屋の店舗や屋敷、商品蔵などをそっくり利用した宿泊施設で本格的な郷土料理店。主人の渋川恵男(しぶかわともお)氏は、「七日町どおり街並協議会」を組織した人物で、観光カリスマにも認定されていらっしゃいます。
七日町通りは、由緒あるお寺「阿弥陀堂」の参道であること、鉄道駅(七日町駅)が近くにあったこと等により、地域で一番栄えた通りであったそうな。渋川さんが子供の頃は、毎日地元の人で溢れかえっていたらしいんですね。渋川さんにとって、それが”原風景”という訳です。ところが車社会になって以降、その栄華も一変。1980年代にはすっかり衰退し、人っ子一人歩いていない、所謂シャッター街へと姿を変えてしまっていたとのこと。渋川さんは当時東京でビジネス(学生ベンチャー)していたらしいのですが、帰ってきてあまりの変貌ぶりにびっくりしたそうです。
※今でも時折、栄えていた当時の夢を見るそうです。”もう一度あの頃のようにしたい!”というのは強いモチベーションになりますよね。
何とか七日町通りが元の姿に戻らないか、と考え、自分が所有する土地建物を元にやれることを必死に考えたとのことです(パチンコ、スーパーに、という話がいくつもあったが断ったとのこと。これは賢明なご判断をされたと思います)。着目したのは、海産物問屋であった店舗や屋敷、商品蔵そのもの。それらをそのまま活用し、旅館をスタート(20年前)。元々乾物問屋で料理はお手の物、ということで、料理店もオープン。元々あった蔵を活用し、新しくアレンジしており、とってもおしゃれな雰囲気のお店です。大人の隠れ家、という趣があり、これは人気が出るよなぁ、と!
七日町が活性化するためには、1店だけでは無理。ということで、七日町の商店街活性運動を、目黒章三郎さん(元会津若松市議会議員。今度の市議会議員選挙に再度立候補予定)などと3人でスタートしたとのことです。これが「七日町どおり街並協議会」ですね。
前述の「よそ者」という言葉に関連するのですが、渋川さんは当然地元の方なのに、長く東京に滞在していたため、帰ってきたら「よそ者」扱いだったらしいですね。そんなこともあり、まちおこし、1人では難しいと感じたらしいです(三本の矢理論ですね)。ちなみに現在、メンバーは100名ほどにまでなっているそうです。
さて、まちづくりについてですが。渋川さん曰く、「以前は東京まで遠かったので、町の中に東京っぽいものが求められた。しかし現在、東京まで約3時間。ミニ東京化した町は全て衰退の運命にある」とのこと。古い町並みを有効活用し、会津若松という地域に根ざした商売を推進することにより、まちの活性化を図るべきだ、という主張をし、実際行動もされています。
また、重要なキーワードとして、”ヒトとヒトとの交流”というのをあげてらっしゃいます。当然、人が賑わなければ町は活性化できない訳ですから、これは本当に重要なことだなぁ、と。極端な例で言うと、東京などは、出生率低い訳ですが流入者多いため繁栄しています。流入者を増やすことが重要で、そのために、最近話題の「二地域居住」型住人を積極的に取り込む必要がある、とのことです。
また、会津若松の気質についてもコメント頂きました。会津若松、昔の武骨なイメージ(武士道精神、気骨等々)が強いが、それらは現在、一見見えにくいため、中々伝わらない。外部から来た人、肩透かしを食う面あるのではないか、とのこと。精神よりは、具体的な文化やモノやヒト、等でアピールする必要があるのかもしれないですね。
ちなみに皆さんは、「会津の三泣き」って知ってますか。外から会津に来た人が、まずは「最初に溶け込めずに泣く」、続いて「人情の暖かさや冬の寒さに泣く」、そして最後に「別れで泣く」という。これが会津若松の気質を現しているんだとか。武骨だが馴染めば暖かい、という感じですかね。これって、古き良き日本人のイメージに重なるのではないでしょうか!!
...「文化と歴史を大切にする活動(協同組合会津復古会)〜会津若松取材報告その3〜」に続く。
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