戦後は、戦前の大家族主義から、消費を前提とした「都市型」の「核家族」が圧倒的に増えて、家族は、「生産共同体」から「消費共同体」へと変化した。
また、戦後の新憲法は、「福祉国家」を謳い、国民の生活は国家がきちんと面倒をみるものと国民は思うようになり、「いざとなれば国や行政がなんとかしてくれる」という神話ないし幻想を抱くようになった。
戦後、日本は官僚主導の護送船団方式によって、右肩上がりの経済成長を実現させ、国民は物質的に豊かになっていった。
戦後は、「日本」という国民国家は、「右肩上がり信仰」を国民が共有し、閉鎖した「安定的なシステム」として機能していたのである。
しかし、官僚主導の護送船団方式は、バブル崩壊によってもろくもくずれさった。
これは、近代における日本の国民国家が終わりをつげる序曲となったのであった。
バブル崩壊を契機として、「安定的なシステム」であった日本というものが終わりをつげたのである。
橋本内閣において、金融ビッグバンが開始し、金融を国家統制から国際金融市場へと委ねる流れが決定的となった。これによって、日本人は、グローバル経済へと巻き込まれることとなり、安定性を喪失し始めるのである。
そして、その流れは、小泉政権で決定的なものとなった。
金融のグローバリゼーションとは、それまで人間圏のなかでそれぞれがローカルに独立・自立していた国民国家単位のユニットが、グローバル金融市場というものを世界各国の共通インフラ・基盤として、各国が経済を行うことを意味する。
これは、国家と資本が離婚をしたようなものであり、国民国家がマネーというものに関して、国民に対するウチとソトとの境界たることを放棄したということを意味する。
国民国家の「共同体」としての意義は、経済のグローバリゼーションによって大きく変化したのである。
地球システム的にみると、「人間圏」の構成要素であった「国民国家」というサブシステムが変化し、各国民国家がもっていた「金融市場」という「構成要素」が分化して、国民国家とは別個に、「グローバル金融市場」という新しい構成要素が成立したことを意味するものといえるのである。
「グローバル金融市場」とは、カネで何でも買えるという共同幻想を通じて巨大化した「グローバルマネー」そのものだと言ってよいだろう。
つまり、金融グローバリゼーションは、人間圏というシステムの内部の重要な構成要素として、「グローバルマネー」を生み出した分化プロセスだったのである。
人間圏の内部で見ると、いまや「グローバルマネー」は、アメリカ、日本、イギリス、中国といった「国民国家」という構成要素の上に位置し、或いは、包含する形で存在しており、どの国民国家もグローバルマネーに依存しながら(前提条件としながら)、動かざるを得ない状況なのである。
グローバル金融市場が調子がよければ各国の経済は調子が良く、その調子が悪ければ各国の経済の調子は悪くなる。
いいときもわるいときも、「つながって」しまったのである。
つまり、日本を含む各国は、経済をグローバル化した時点から、「自国一国ではコントロールできない巨大な力」に経済を委ねてしまったのである。
日本は、経済のグローバル化を選択した時点で、経済というものを自国のコントロールから外してしまったのである。カネというものは、もともとは、モノとモノの交換を促す「手段」であった。
しかし、カネには、「どんなものにでも変化できる」という「潜在力」があり、且つ、「保存がいくらでもきく」という性質もあって、人間にとっては生きていくことの目的になってしまうほどの「魅力」いや「魔力」をもっている。
人間は、いまや、世界的に、マネーのもつこの魔力に屈したといってよい。
そして、「カネで何でも買える」という人類の共同幻想が、幻想を超えて、いま正に制度として確立したのである。
マネーはいまや、各国民国家に上位し、それを包含するもの、人間圏の根本原理たる地位を獲得したといえる。
もっといえば、マネーが人間圏を「支配」している、ということである。
つまり、マネーとは人間にとっては「神」といってもよいようなポジションを獲得したのである。それが、経済のグローバリゼーションの本質であることを十分理解する必要がある。
米ドル紙幣には、「IN GOD WE TRUST」と記載されている。
もしかすると、マネーが人間を支配することは、予期されていることだったのかもしれない。
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